日本の化学産業約100年- 1940年代 戦後製油所が復活
1940年(昭和15年)にアメリカでは、高オクタン価ガソリンの需要急増で、石油化学工業が急激に発達しはじめた
1941年には、アメリカが日本への石油輸出を禁止した。同年12月には太平洋戦争が始まった
石油の輸入ができなくなったことにより、日本の化学工業は石炭から石油を作り始めた。人造石油と呼ばれていた
苦肉の策ではあったが、コストが高く採算の合う物では無かったという
工業用の潤滑油も不足していた。食用油から、潤滑油を作ることも軍の指導で行われた
1944年12月26日、和歌山県にある大豆から潤滑油を作り出す工場で大爆発が起きている
完成を間ぎわにした新設の大豆油脂抽出工場で、空気で加圧中軽油が漏れ近くの溶接工事の火で着火爆発した事故だ
死者13名, 重傷者21名, 軽傷者24名 軍人多数が現場で爆死したという
である油脂から潤滑剤をつくる工場で試運転中操作ミスで溶剤であるヘキサンが漏れ溶接火花で爆発したのだ
脂肪酸に水素添加して硬化油を製造する装置だ。終戦間際に、不足していた潤滑剤を製造中無理な試運転中の爆発でもある
何度か漏れがあり、補修を同時並行で実施。その最中に爆発。未完成の部分があって火気使用工事が行われていた
試運転と並行して電気溶接が行われていた。漏れたヘキサン蒸気に着火爆発し塔が飛散し, 破片により水素タンクが破損して発火した
約3時間燃焼したという
工場の稼働を急ぐあまり、試運転と火気工事による補修を同時並行で行ったことが事故につながった
気密テストには本来窒素を使うべきだが、戦時中で窒素が不足していたという
高圧の空気を気密テストに使ったことから燃焼を加速した
軍事機密の中での試運転であり本当の原因は何だったのか公開はされていない
1945年(昭和20年)戦争が終わると、日本の化学企業は一斉に肥料の生産に向かう。食糧事情を改善するためである
1948年には消防法が制定されている。戦後の復興で産業界でも危険物が多く使われるようになったからでもある
1949年に当時のアメリカ占領軍が、日本での製油所の復興を許可した、日本人ではじめて湯川秀樹氏が、ノーベル物理学賞を受賞した年でもある
製油所の復興は、日本のエンジニアリング技術を活性化させた。日揮や千代田化工などのエンジ会社が技術を蓄積したのもこの時代だ
その後、日本の石油精製企業が続々と稼働を開始していくことになる
一方で、この時代まだまだ工事管理は未熟で、運転中に火を使った工事大きな事故も起きている
1949/10/28で起きている事故だ。漏れていた、化学物質が爆発性の物質を造っているのに気づかず火気工事を進め8人が死亡した事故だ
時代は、1950年代へと移っていく