日本の化学産業約100年- 1970年代 化学工場で事故が多発
1970年(昭和45年)は、コンビナートが本格的に稼働を始めていた時代である
技術革新、生産設備の高度化が進展するものの、設備の信頼性はまだ低く、設備故障も多発した
バルブの閉め忘れなど単純なヒュ-マンエラーの事故も多かった
人のミスであるヒュ-マンエラーに着目し始めたのもこの時代だ。
化学災害などの事故の情報が本格的に記録として残り始めたのもこの時代からだ
労働災害も多かった時代だ。災害の未然防止を進めようと国は1972年に労働基準法から安全衛生の部分を抜き出した
独立した法律として「労働安全衛生法」を施行している
1973年という年は、日本の石油や化学工場で事故が多発した。毎月のように事故が起こり新聞の一面を賑わしていた
事故の背景には急速な経済成長と、技術伝承の2つが関係したとも言われている
大量生産の時代を迎え、化学工場の装置はどんどん大型化していった。人が設備や技術の進化についていけなかったのだ
もう一つは、戦後化学産業に携わってきた人達が退職していく時期に当たっていたことだ
当時の定年はいまよりもずっと早く55才だ。工場を作り上げてきたベテラン従業員が退職することで技術伝承もうまくいっていなかった
若手人材への教育の大切さを認識し、教育体系をつくり教育の充実を図り始めたのもこの時代だ
一方で経済成長にブレーキをかける出来事も起こっている。1973年10月には、第1次石油危機が勃発した。 第4次中東戦争発生したから
OPECは原油公示価格の大幅値上げを通告してきた
石油の価格が上がり始めたのだ。石油化学の原料である石油の価格が上がることは石油化学産業に取って大きな痛手となる
更に、1978年、第2次石油危機発生 原油価格が急上昇した。 約5年にわたる長期不況の引き金となった
世界的なインフレ、生産消費の停滞、大量失業、国家財政の赤字増大、対外債務の増加、貿易の縮小と保護主義が台頭し始めた
貿易摩擦の拡大など世界的な同時不況をもたらした
1970年代後半頃、日本の企業で危険予知トレーニング(KYT)の手法が開発された
その後、中災防が開発した、問題解決4ラウンド法も使われるようになり日本の企業に危険予知活動が広まっていった
危険に対する感受性を鋭くし、一人一人が作業に潜む危険に気付くことで事故・災害を防ぐことの大切さに共感をよぶものであった。
その後、ゼロ災運動で指差し呼称も活用されるようになり一人一人が安全活動に参画するようになった時代でもある
1979年パソコンの時代が登場する。NECから発売されたPC-8001は1979年9月から市場に出回り始まる
8ビットのコンピューターだが、化学企業でもその活用を模索する動きが始まる
化学工場に存在する膨大な数の機器の保全計画を、コンピューターを使って試みようとすることが始まったのがこの時代だ
時代は、1980年代へと移っていく。高度成長が終焉、減速経済へと変わっていく