日本の化学産業約100年- 1980年代 大量生産から少量多品種生産へ
1980年(昭和55年)代は、個人消費の鈍化により、GNP成長率が急激に低下してくる。国際競争力回復に向け、過剰設備の廃棄が進んだ
1970年代後半に登場したDCSという装置が1980年代になると本格的にプラント全体の制御に使われてきた
調節計や記録計を計器盤に組み付けて運転する計器盤による運転方式から、DCSによる運転方式へと変わっていく
1982年10月、NECが新しいパソコンを発売する。PC9801という、16Bitパソコンである
当時は,Microsoftのwindowsは登場していなかったので,Basicと言う言語でのプログラミングが必要だった
それでも、この新しいコンピューターは化学企業で取り入れられ、設備の点検計画や修繕費を算出する装置として利用され始めた
新規化学物質が増え始めたのもこの時代だ。1979年の第二次石油危機以降、石油を原料とする化学産業は大きな影響を受けた。
化学企業は新たな収益源として、高付加価値の化学物質の製造を試みるようになったのだ。医薬品や農薬など少量で高価な化学物質だ
いわゆるファインケミカル産業が発達し始めた。当然のことながら、新たな物質が出てくれば未知なる物質であるが故に事故は起こる。
1980年5月浦和にある薬品工場で爆発事故が起きている。この事故は、2名の死者と13名の負傷者を出し爆風で周辺の家屋を破壊した
http://www.shippai.org/fkd/cf/CC0200058.html
原因は医薬品中間体である5CTという物質だ。事故後の調査で、衝撃を加えると爆発する不安定物質であることもわかった
医薬品のような物質は、一部を除き危険なものではないと当時は考えられていたので、化学工業界に衝撃を与えた事故だ
不安定物質のエネルギー評価に関心を持たせる契機になった事故だ
HAZOPの活用が始まった時代でもある。化学プロセスの運転・操作面を主体に安全性を評価する手法だ
化学プラントでは、通常運転から温度や圧力などに「ずれ」が生じると、トラブルが起こることがある
この、「ずれ」をキーワードに想定される危険源を考え、HAZARDと呼ばれる危険な状態を想定する
現状の設備や体制で安全性が確保されているかを評価する手法だ
そうは言っても、HAZOは万能では無い。手法だけを学ばせていても事故は防げ無い。そこに難しさがある
1986年、高圧ガス取締法が改正され自主保安認定制度始まる。1年毎の保安検査が2年になり、2年連続運転と言うものが可能となる
企業は、長期連続運転という経済的メリットを受けることになる.背景には、海外との国際競争力への対応があるからだ
一方で、定修機会が長期化することで、運転員がスタートや停止という非定常運転の経験が減っていったという問題点も生じてきた
大型プラントでは運転シミュレーターを導入し、スキルの補完を試みたものの必ずしも満足のいく物では無かった
1987年3月、ISO(国際標準化機構)によって品質保証のための国際規格ISO9000シリーズが制定される
国際的な対応が多くの化学企業も求められるようになったのだ
1989年、日本はバブル経済がはじけた。
時代は昭和から平成へと変わり、1990年代へと移っていく